腕を取ったのは、その肩が震えていたからで、
抱きしめたのは、予感が的中してたから。
もう、涙は見たくない。
そう誓ってから。
一体何回、泣かせてきたんだろう。
苦い涙
きぃ、と、冷たい音を鳴らして開く扉。
その向こうは、荒れ果てた部屋。
レース場からの歓声と車のエンジン音が、
壁越しに、耳障りに響く。
帰る場所がここしかない、なんて。
我ながら、情けない。
コンクリートの灰色に囲まれた、無機質な空間。
どさりと地面に下ろした荷物が、舞い上げるのは砂埃。
昼間でも暗い、明かりの入らない窓。
世間からの隠れ蓑。
あの頃の俺には、申し分のない場所だった。
人は誰もお互いに干渉せず、
心を消費することもなかった。
そして気がついたら、自分自身までこの部屋と同じように、
無機質なものになってしまっていた。
でも、今は。
生きている感覚を、取り戻した。
地上へ、空へ、戻って。
一番の相棒と、一番の仲間たちのもとへ帰って。
むしろレース以上に、死ぬ思いをしたはずなのに。
ここから俺を救い上げてくれた人を思う。
沙羅…。
心の中でその名を呟いて、胸苦しさに息を吐いた。
ディラドとの戦いを終えて、地球に向かうガンドールの格納庫。
震える肩、とっさに抱きしめて。
唇から紡がれる言葉が怖くて。
だからふさいだ。短絡的な行為。
沙羅のことだ。
きっとまた、1人で背負おうとする。
自らの手で、烙印を押してしまう。
それならいっそ、言葉も気持ちも、呑み込めてしまえたら、と。
「…んっ…ふ…」
苦しげな息継ぎ。
もがく手首を押さえつけて。
唇には、苦い苦い、涙の味。
「…だ…め…っ…」
瞬間、顔を背けられて、
はっとして束縛を解いた。
目をそらしたまま、消え入りそうな声が紡いだのは、
「ごめん…。忍…」
謝罪の言葉。
冷えた空気と一緒に、耳に届いた。
沙羅が、シャピロをライガーに乗せると言った時。
戸惑いは、隠せなかった。
でも本当は、それすら罪なことだと、わかっていた。
過去の呪縛から、一歩踏み出そうとしていたあいつを、
先に裏切ったのは俺。
沙羅が、何より恐れてること。
それが何なのか、よく知ってるはずなのに。
最初にそのきっかけを作ったのも俺なら、
同じ思いをさせたのも、俺だ、なんて。
今さら自分の思いをぶつけるなんて、許されない独りよがり。
本当は、謝らなくちゃいけないのは、俺のほうだったのに。
悲しげに揺れた瞳とともに、蘇る、涙の苦い味。
自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりと噛み締めた。
「お前、戻ってたのか」
ふいに、声を掛けられる。
レーサー仲間の1人。…名前も、よく知らないけど。
「次のレース、もうすぐ始まるぜ。出るんだろ?」
「あ…あぁ…」
曖昧に返しかけて、はっとする。
ここでうなずけば、もとの生活に戻るだけだ。
誰にも干渉せず、されることもなく。
ただ、走って、がむしゃらに。何も、考えずに。
心を痛めることもなければ、
沙羅を…思い出すことも。
でも。
再び空を飛んだ。
信じられるものを、手に入れた。
俺の居場所は、もう、ここじゃない。
そして、そう思わせてくれたのは、他ならぬ、沙羅だから。
地面に落とした鞄を、もう一度拾い上げると、
俺は、今度ははっきりと返した。
「荷物を、取りに来ただけだ」
歓声と、車がコースを滑る甲高い音。
遠くに聞きながら。
行く当てなんかないのに、むしろしっかりとした足取りで、
俺はその場所を後にした。
2009.10.31

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