ふらふらと、おぼつかない足取り。
ぼやける意識の向こう、いつまでもはりついて離れないのは。

涙。

哀しみにまみれながらも、決意と覚悟をはらんで。
痛いほどに美しく流れた、涙。

守りたかった。幸せにしてやりたかった。
笑ってほしかった。悲しませることだけは、したくなかったのに。



5.



あがいても、もがいても、近づいてくるその日。
振り払うように、目をそらすように。イーグルを駆り出した。

空にいるひと時だけは、全てを忘れられる気がしていた。

でも。地上に戻れば、襲ってくる現実。
いつしかそのギャップに耐えられなくなった俺は。
相棒に、背を向けた。


それからはまさに、底無し沼のような日々だった。
もがけばもがくほど、身動きは取れなくなって。
眠ることすらも。満足にできないほどに。

暴れたがる本能、酒の力で麻痺させて。押さえつけて。
そうすることでなんとか、理性を保っていた。

でも、それが自分が選んだ道なら。
ただ冷静に、現実を受け入れることができないのなら。
耐えるしかないのだと。思っていた。そんな時。

あいつが。沙羅が来た。
そしてその瞬間。俺の中の箍は、いとも簡単に弾け飛んだ。

一番見られたくない姿、一番見られたくない相手に晒した、混乱と。
もはや自分1人では抱えきれなくなった苦しみ、あふれ出して。救われたくて。

『慰めに来た、とか…?』

わざと、あいつを汚すような言葉、投げつけて。
その身を、心を。欲望のまま、求めようとした。

きっとあれこそが、俺の正体。
身勝手で、浅ましい本性。

極限状態。そんな言い訳、するのは簡単だけど。
そういう状態になれば、守りたいと思った存在すらも、この手で壊してしまうかもしれない。
それが俺という男なのだと、思い知らされて。

それでもいっそ拒まれたのなら。俺だけが落ちればよかったのに。

『忍がそうしたいなら、私…いいよ…』

慈愛とも哀れみともつかない、悲しすぎる表情。
一緒にどこまでも、落ちることさえ厭わない。そんな決意の前に。

自分の情けなさ、不甲斐なさ。嫌というほどに、露呈して。


そばにいる。
遠い日の約束、忘れたわけじゃない。

俺の導き出した結論が、沙羅をまた、追い詰めてしまうこともわかってる。

それでも。
どちらにしてもあいつを傷つけてしまう。そんな存在なら。

無理やりに言い聞かせる。
遠くから幸せを願う権利しか、きっともう。俺にはないのだと。


どこをどう歩いたのか。
再びマンションの下に差し掛かる。

ガチャ、と扉の開く音に、顔を上げると。
俺の部屋を出る沙羅の姿、目に入った。

泣きはらした目元。俺に乱されたブラウスの胸元、引き寄せながら。

俺を、待っていたのだろうか。何を、思っていたのだろうか。
ただでさえ、細い体。さらに小さく見えるほどの、悲痛な空気をまとう背中。

駆け寄って、抱きしめたくても。
それはもう、許されないこと。

獣としてしか、生きられない。そんな俺には。
ただ、黙って。身を潜めて。
後ろ姿、見送るしか。

最後まで言えなかった、あいつへの想い。
でも今思えば、それでよかったのかもしれない。

想いを遂げてしまっていたら。もっともっと。傷は深くなる。
俺にとっても。沙羅にとっても。

曖昧なままの、関係だったから。
いっそ俺という存在を、憎んでもいい。一刻も早く記憶の中から消し去って。
願わくば、二度と傷つかず、傷つけられることもなく。幸せであってほしい。


遠ざかる背中、目に焼き付けて。
ぼんやりと見上げる空。

全てを手放した獣には似合いの、深い深い闇の中。

月は、何かに蝕まれたように、青く光り輝いていた。




2011.11.11