イーグルを駆るあいつは。
いつだって、生き生きとして見えた。
まるで大好きなおもちゃを与えられた子どもみたいだ、なんて、からかったりもした。
不調にも誰より早く気づいたし、整備すら、メカニック任せにはしなかった。
『俺とこいつは、一心同体みたいなもんさ』
いつかのはにかんだ表情。真っ直ぐな言葉。
頭の中、蘇って。幾度となく響いた。
4.
重い足は、それでも目的地に向かって進む。
最寄り駅からさほど遠くない立地。何度か、訪れたこともある。
雅人から、半ば無理やり奪ってきた書類は。
机の上、置き去りにしてきた。
最後の審判を下すような内容。
引き受けるふりをして。今はまだ、その目に触れさせたくなかっただけ。
無意味な抵抗だとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
あっという間、部屋の前、たどりつく。
鼓動も呼吸も、心なしか速くなる。
来たのは正解だったのか。あるいはもっと早くに来るべきだったのか。
正直なところ、よくわからない。
忍にとっての私の存在。それ自体がまだ、曖昧なまま。
ただ、辛いなら、隣にいたい。
いつも私にしてくれたみたいに。
なにができるなんて、思ってるわけじゃないけど。
ただ、そばに。隣に。
響く、ベルの音。ドアは、開かない。
意を決してノブに手をかけると。鍵は、かかっていない。
のぞき込む暗い部屋の中。
カーテンは、開いてるらしい。差し込む月明かり。
気配を頼りに、足を踏み込むと。
「、沙羅…」
壁際に置いたソファに体を投げ出して。
うつろな目、私の姿を捉えると、驚いたように見開く。
恐る恐る、ソファ脇まで近づく。
電気もつけず、そのまま夜になった、そんな風情の室内。
ちゃんとしたものを食べてないのは、散らばった机の上、一目でわかる。それに。
「飲んでる…の…?」
無造作に並ぶビン。漂う空気に混ざる、度数の強いアルコールのにおい。
普段から、お酒は飲む。けど。こんなふうな飲み方はしない。
「…眠れなくて、な」
けだるそうな声。少し、もつれた呂律に。しめつけられる胸。
心に落ちた闇、私なんかが思うより、もっとずっと、深いと思い知らされる。
「っ、何か、作ろうか?食べたいものとかっ…」
「何しに来た」
取り繕うように発した、妙に明るい声。見透かすように、かき消されて。
私は思わず黙り込んだ。
忍は静かに続ける。
「…誰かに、言われたのか」
「っ、違…」
「んじゃ、笑いに来たのか?」
「そんな、ことっ…」
「じゃあ、なんだ…」
「えっ…ぁ…」
次の瞬間、強引に引き寄せられたかと思うと。ソファの上、組み敷かれて。
「もしかして、慰めに来た、…とか?」
「やっ…忍、何言ってっ…」
ぞく、と背筋が冷たくなるような台詞は、どこか悲しい自嘲の笑みとともに。
「…ん…んっ…ゃあっ…」
荒々しく奪われる唇。
暴かれるブラウスの胸元。
その目の前に、晒すのは。初めての。
かあ、と一瞬にして頬は上気する。でも。
「沙羅、っ…沙、羅…」
うわ言のように名前を呼ぶ、掠れた声は。
まるで助けを求めてもがいているように、悲痛に響いて。
私はその手を振りほどくことができなかった。
流れ込んでくる悲しみに、痛みに。
堪え切れずにその背中に腕を回す。ゆっくりと、癖のある黒髪を梳く。
「…、」
あって当然のはずの抵抗、徐々に緩んだこと、不思議に思ったらしい。
は、と顔が上がる。
抵抗しなければ。むしろ、抵抗したとしても。
このままどうなるか。そんなことは、わかってた。
…もしかしたら、ここに来る前から。
それでも私は。
「…いいよ…」
「…っ、」
「忍が、そうしたいなら、私…いい、よ…」
気持ちと裏腹、震える声。宥めるように、言葉を紡ぐ。
そう。忍となら。
いつかこんなふうになっても、いいと思ってた。
あいつとのこと、引きずって。閉ざし続けた心。
忍は、きっとわかってて。唇以上に私を、求めなかった。ずっと、待っていてくれた。
曖昧な関係。それはきっと、忍の優しさ、だったから。
その関係を壊すのが今なら。
それで深い深い傷の一部分でも、癒すことができるならかまわない。
ただ少し。ほんの少し、きっかけは歪んでしまったけど。でも、でも、それだけの、こと。
目を閉じたはずみ、溢れる涙。頬を伝う。
その瞬間。
低く、呻くような声とともに。
のしかかっていた重み、ふいに取り払われる。
「しの、ぶ…?」
恐る恐る、目を開けると。
わなわなと震える唇。噛み締めて。
苦しげな表情。視線は、そらしたまま。
「…帰れ…」
「…え?」
「いいから、さっさと帰れっ…!」
状況を飲み込めなくて、動けずにいる私に。
「っ…くそっ…!」
荒げた声と、鋭い視線を投げつけて。
忍はそのまま部屋を出て行った。
残された私は。呆然と。
何も、できず。何も、言えずに。
ただ、泣き出しそうにさえ見えた、忍の顔だけが、頭から離れない。
いつだって救われた。
そばにいてくれるだけで。
それなのに。
私には、救えないの?
寄り添うことすらも、できないの…?
* * *
それから数日が経って。
期限まであと3日と迫った日。
突然、電話が鳴った。
散々迷った挙句、受話器を上げると。
『結城か?…よかった、いてくれて』
どこか安堵した第一声は、葉月博士。
『お前まで顔を見せないから、心配していたよ』
「すみません…少し、体調を崩して…」
見え透いた嘘、紡ぎながら。
お前まで。その言葉から、忍はやっぱり基地にも行っていないのだと悟る。
あれから、会ってない。連絡すら、怖くて。
『ところで…驚かないで聞いてくれ』
そんな前置きの後、博士から告げられたのは衝撃の事実だった。
解散は、見送られたのだと。
スライたちが4人そろって辞退を申し出たらしい。
受け入れられないのなら軍を辞める、とも。
決死の、申し入れ。除隊処分になってもおかしくはない。けど。
誰にでも勤まるわけじゃない。獣戦機隊の後継者。
上層部も、引き止める他はなく。
譲歩案として、出されたのが。
データ変更は一部にとどめ、新獣戦機隊はそれぞれの機の補佐パイロットという位置づけで、
任務に付くこと。
つまり、専用機ではなくなるにせよ、私たちの記憶は消されずに残り、
獣戦機隊も事実上解散を免れた。
スライたちに余計な心配、かけてしまった。罪悪感。
それと同時に、どこかホッとする。身勝手な本音。
『正直、私も驚いたよ。まさか彼らがそこまでするとは…。司馬には早速しぼられたようだったがな。
式部も、張り切って訓練に参加している。あいつにしては、珍しい』
電話越し、小さく笑う。博士もまた、久しぶりに、和らいだ声。
少し饒舌なのは、安堵の証。
亮は。立場上、手放しには喜べないだろう。でもきっと、心の奥底では。
そして雅人も。周りを気にして明るく振舞っても、苦しんでいたのを、知ってるから。
でももう1人。名前が挙がっていない人物がいる。
誰よりもこの知らせに、胸を撫で下ろすはずの。
「博士…忍、は…?」
恐る恐る、尋ねると。
博士は、それなんだが、と言葉尻を濁した。
『藤原だけ、連絡がつかなくてね…』
ドクン、と、痛いほどに鼓動が跳ね上がる。
『電話に応じないのはここしばらくずっとなんだが、
今日かけたらどうも番号を変えているらしくてな…何か、聞いていないか』
博士の言葉が、どこか遠く聞こえる。
そのぐらい、大きくなる心臓の音。
意識が遠のいた拍子、取り落とした受話器が、床にぶつかって。ごとん、と派手な音。
『…結城?おい、どうした?結城っ?!』
急激に頭をもたげる不安。体中を支配して。
ふらつく足、博士の声に応えることすら忘れて。
私は部屋を飛び出していた。
目的地は、あの日と同じ。
忍のマンション。
その場所が近づくにつれて、不安は、どんどん大きくなって。
息も継げないぐらい、苦しくなる。
もつれそうになる足で、階段を駆け上がって。
部屋の前、たどり着く。
あの日、自分の無力さを思い知らされた場所。
しばらく待っても、一向に忍は戻ってこなかった。
悔しくて、情けなくて。泣きながら後にした。
ドアに手を添えたところで。背筋に冷たいものが走る。
明らかな違和感。何の気配も、感じないなんて。
「…っ」
一瞬躊躇って、震える手でドアを開けて。
自分の予感、的中してしまったことを知る。
そこには何一つ物はなく。
当然、忍の姿もなかった。
2011.11.9

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