壁にかかったカレンダー。今日の日付の上、そっと指を置く。 ゆっくりと横にずらして、一段下に。そこから数えて二日。 「…」 このところ、日課になりつつあるこの動作。 いっそ印でも付けておこうかと思うけど。間違っても楽しい予定じゃないから。 早く来られても困る。というか、できることならすっと来ないでいい。 そんなことを考えながら、ため息混じり、指を引き剥がす。 時計を見れば、出かける時間。 「さて…行きますか」 机の上、無造作に置かれた封筒。携えると。 重い足を引きずって、部屋を出た。 3. その封筒を持ってきたのはローラだった。 博士に言付かった、と聞いた瞬間に、おおよそ予想はついたけど。 封を切って覗いてみた中身は。やっぱり予想通りの内容。 封をしてあったのは、博士なりに気を遣ったんだと思うけど。 ローラだってもう、何もわからない歳じゃない。不安そうな表情が物語る。 なんでもない、なんてごまかしは効かないのだから。 不用意にこんなもの、言付けないでほしいよ。 心の中で、博士に思い切り不満をこぼす。 しかも書類はきっちり4人分。 俺に配れということらしい。どこまでも、間接的。 そりゃ、あの日の俺たちの反応を見たら。無理もない。 午前中の訓練を終えたばかりの亮を捕まえて、まずは一部、封筒の中身が軽くなる。 やりとりは、あくまで事務的に。そうすることで、余計な感情、呼び起こさないように。 多分亮も、同意見。言葉少ななままで別れる。 それから、談話室に向かう。 待ち合わせていた沙羅は、すでにそこにいた。 「ごめん、待たせちゃった?」 言いながら、向かいのソファに腰を下ろす。 「ううん、大丈夫」 にこりと笑顔。でもその奥にはやっぱり、疲労の色。 居たたまれなくて、早急に話を切り出す。 「これなんだけど…」 机の上、静かに差し出した書類は。今回のことに関する、いわゆる『同意書』。 『同意しない』なんて選択肢が、あるわけじゃないけど。 「…嘘みたいだよね。こんな紙切れ一枚で、俺たちの今までが全部、過去になっちゃうなんてさ」 沙羅は黙って書類に目を通すと、小さくため息をついた。 「…これ、他の二人にも?」 「亮にはさっき渡してきた。忍には…まだ…」 「…、そっか」 その名を聞いて、沙羅の顔が一瞬強ばったのに気づく。 近頃基地に姿を見せなくなった忍のこと。もちろん俺も亮も気にかかってるけど。 沙羅はきっとそれ以上に、心を擦り減らしてるから。 「今日の帰りにでも、忍のとこ、寄ってみるよ」 できるだけ明るい口調、努めることぐらいしか。俺にはできないけど。 と。 「雅人、忍の分の書類、今持ってる?」 沙羅がふいに切り出した。 「あ、あるけど…なんで?」 「それ、私が預かってもいい?」 「え…」 突然の申し出に、思わず言葉を失う。 沙羅は肩をすくめて続けた。 「あんたにばっかり、損な役回り押し付けるわけにはいかないからね」 「でも、沙羅…」 「いつまでもいじけてるんじゃないって、喝入れてくる」 冗談めかした台詞。でもその目の奥には、裏腹の覚悟。 気づいていたのに。射抜かれて。俺は。 すっかり軽くなった封筒、持ち帰って。 中身を確認する。最後に残った一部は、もちろん自分の。 もう一度眺めて、ため息をつく。 ただの紙切れ。それでも公的な文書。その影響力は絶大。 言うなれば、俺たちに渡された引導。 沙羅の、覚悟を決めたような表情。頭に浮かぶ。 あの時あの申し出に、俺は応えるべきだったんだろうか。 どこか、逃げ出したかっただけなのかもしれない。 つらつらと並ぶ、堅苦しい文句の後、空欄に。 サインをして提出する。たったそれだけだけど。今までで一番難しい任務。 俺にとってそうである以上に、忍に、とっては。 それが、わかっていたから。 「俺って…卑怯だよな…」 ぼそりと呟いた一言は、あまりにも的を得ているように思えて。 俺は書類を放り出すと、ソファに背中を預けた。 壁にかかったカレンダー、指をかざす。 今日が終わって、また一日、その日は近づいた。 2011.11.5