4.




鈍い覚醒の中。

目覚めきらない意識の端で聞こえた、パタン、と、ドアが閉まる音。

誘われるように目を開けたら、そこには。
見覚えのある天井が広がって。

「帰って…きちゃった…」

誰にでもなく、ポツリと呟いていた。



宇宙空間。何もない、無の空間。投げ出されて。
遠のいていく意識の中、どこかほっとしている自分がいた。

罪のない人々を脅かす、悪魔の影は振り払った。
もう誰も、無為に傷つけられることはない。平和な日々が戻るだろう。

そして私は。このまま消えて。
そうすれば何もかも、忘れてしまえるのだと。

いつまでも染み付いてはなれなかった、引き金を引いた指の感触。
あいつの最期。何もかも。

それなのに。
今ここにいる私は、確実に生きていて。
何一つ、忘れることもできずに。

「…っ」

ぞわ、と嫌悪感に粟立つ肌。
吐き気に襲われて、ベッドを飛び出す。

後悔しているわけじゃない。
望みどおりに、決着をつけることはできた。

でも、そこにあったのは未来なんかじゃなくて、一生消えることのない烙印。

たとえ地球を裏切った男だったとしても。
同じ、地球人を。かつての上官を。そして、愛した人を。この手で殺した。

洗面台の鏡に映る顔には、それでも血の気が差して。
長い間眠っていたのだろう。順調な回復の色。
余計、悲しくなって。

ぼろぼろと、涙が溢れた。



どのぐらいの時間が流れたのだろう。
幾分冷静になって、あたりを見回してみる。

月明かりだけの薄暗い室内。静まり返った廊下。
多分、今は真夜中で。本当に、よかったと思う。

ふと、サイドテーブルに置かれた花瓶に目が行く。
可憐な白い花は。おそらくローラからの。
生けて間もないのか、瑞々しい花びらが闇に映える。

そこで、はっと思い出す。
さっき、部屋を出て行ったのは。あれは、ローラだったのだろうか。

でも、その考えはすぐに却下された。
時間的にも遅すぎるし、何より。

その横に置かれたカップには、飲みかけのコーヒー。
濃い目に入れた、見るからに苦そうな。
それが誰のものか、見当はすぐについたけど。

高鳴りかけた鼓動には、気づかないふりをした。

もうこれ以上、甘えるわけにはいかない。
だからといって、私は。平気な顔して振舞えるほど、強くもないから。

だったら、結論はただ1つ。



簡単に身支度を整えて、音を立てないように部屋を後にする。
きっともう、戻ることもない。

ローラにお礼を言えなかったこと。
博士に挨拶もできなかったこと。
それから、亮や雅人の無事を、確かめられなかったこと。

それだけが、心残りだったけど。

私は気持ちを断ち切るように、足早に歩き始めた。
と、その時。

「散々心配させといて、勝手に消える気かよ」

ぶっきらぼうな、でもどこか優しい声。呼び止められた。

「…」

答えてはいけない。
振り向いたりしてはいけない。
止まった足、無理やり進めかけたのに。

「甘いほうが、好きだよな?」
「えっ?」

突拍子もない言葉に、思わず振り返った瞬間。
ポン、と、投げてよこす缶。反射的に受け取るしかない。
手の中におさまったのは、あったかい、カフェオレ。

「よし、行くぞ」

呆然とする、その隙をつかれて。空いた手を、取られて。
なされるがまま、基地の外に連れ出された。



月明かりの丘の上。空には、満月。

ひんやりとした草に、寝転がる忍の隣、促されて。
仕方なく、腰掛ける。
これは、最後のお別れ。そう思えば。そのぐらい、きっと罰は当たらない。

「ったく、どいつもこいつも…」

月を仰いで。呟いた忍の言葉。
どいつもこいつも。そう言った意味が気になって、私は視線で尋ねる。

「亮のヤツさ。あいつも起きるなりどっか行っちまってよ。…ま、あいつの場合はいつものことだけどな」
「亮…無事なのね…」
「あぁ。…ちなみに雅人もピンピンしてるから安心しろ」
「そう…」

心残りが1つ消えて、ほっと胸をなでおろす。

「で、お前はどこに行くつもりだったんだ?」

今度は聞き返されて。思わず黙り込んでしまう。

どこに行くか、なんて。はっきりとした目的は何もない。
ただ、頭に浮かんだのは、ここを出て行くこと。
みんなの。忍の。そばを、離れること。ただ、それだけだったから。

「さぁね…」

あいまいにしか返せない私の返事に、忍は静かにこう言った。

「なら、せめて…決まるまで待つ、ってわけにはいかねぇのか…?」

その瞳は。切なげに翳って。
痛いほどに、伝わる気持ち。
ぐらぐらと、揺れる決意。でも。

これまでだって。
戦いが始まったときから。もしかしたらもっと前から。そうだったのかもしれない。

いつもいつも。粗野なふりして、誰よりも優しすぎるから。

そんな忍に。私は。
きっときっと、寄りかかってしまう。

私はゆるゆると、首を振った。

「ごめん…もう、ここにはいられない…」

やっとのことで、言葉を紡ぐ。
自分に、言い聞かせるように。


沈黙が、湿った夜風をさらに冷たく感じさせる。
手の中のカフェオレも、だんだんとぬるくなって、むしろ体温を奪っていく。

「お前さ…」

黙っていた忍が、ポツリと口を開いた。

「…戻ってこなきゃよかった、って、思ってんのか?」

その言葉に、打ちつけられたように思考が止まる。

そんなこと、考えていいはずがない。
でも、目が覚めて、最初に頭をよぎったのは、まぎれもなく。

否定できない私を、忍はどう思っただろう。

がさ、と、隣で体を起こす気配。
反射的に、身構える。
何を言われたって、仕方ない。でも。

「…そう、だよな。…俺だって、そうだ」

耳に届いたのは、意外な言葉だった。
驚いて、その表情を窺う。

自嘲交じりの笑み。
視線はまた、暗い空に投げて。

「目が覚めたばっかりのときは最悪だったぜ…どっかおかしくなっちまったんじゃないかってぐらい、体も心もいうことをきかねぇ。
 毎日考えたな、あのままあの宇宙と一緒に消えてりゃ、こんな思いしなくてすんだのに、ってな」

そういえばその横顔は、少し、やつれて見える。
瞳にも、疲れの色。

「不謹慎だろ?最低だ。たくさんの人が命を懸けて、俺たちを生かしてくれたってのに。
 俺だけじゃない。亮や雅人だってそうだ。…それぐらい、追い込まれてた。でも…」

忍は、くい、とこちらに向き直って続けた。

「でも…何もかも諦めるのは、もう少しだけ待とうって思った。…お前が、いたから」

息もできないぐらい、射抜かれる。

「沙羅、お前がいたから。俺は…戻ってこれたんだ。だから今度は、俺がお前を…。
 なんにもできねぇけど、ここにいるから…」

疲れきって。傷ついているはずなのに。
確実に、今を乗り越えた、その先を見据える眼差し。

眩しくて。だからこそ。その光を、遮る存在にはなりたくない。

「…私…だめだよ、甘えてしまうから。あんたの未来まで、奪ってしまうから…」
「俺の未来はっ…お前がいなきゃ、始まんねぇんだよっ…」

重なる、言葉。
精一杯だとわかる、泳ぐ視線。かみ締めた唇。赤くなった耳。
初めて見るような、顔。

「…っ」

見られているのが恥ずかしくなったのか、突然胸元に引き寄せられる。

どくどくと打つ鼓動が。忍のなのか、自分のなのか、わからなくなるぐらい。
近づいて、重なる。

「…でもっ、でも…私…」

熱に溶かされる氷のように、ほどけていく、心のわだかまり。
止めなくちゃ。そう思っても。最後の抵抗は、うわごとのように口をつくだけで。

「どこにも行くな…ここに…そばに、いてくれよ…」

斜め上から降る、掠れた声に。

いつしか私は、頷いていた。



ひときわ強い風が、通り過ぎて。
その冷たさに、はっと我に返る。

どちらからともなく、飛びのいて。

「悪ぃ…」
「ごめん…」

なんとなく、目を合わせづらいから。
そっぽをむいて。

「…そういえば、さ…」

と、目をそらしたままで、忍が切り出した。

「前に話してたよな。戦いが終わったら、ぱーっとやろうぜって」

それは宇宙に飛び立つその日。
ちょうど、こんな満月の下で交わした、他愛もない約束。

忘れるわけがない。
自分の気持ちを肯定するのが怖くて、逃げ道を作った。苦い思い出。

「なんなら…今からどうだ?…その、2人しか、いねぇけどさ」
「え…?」

いきなり何を言い出すかと思えば。
正直、びっくりしてしまったけど。

過去に決着した私に、もしも未来が残されているのなら。
選んだ道の、続く先を。見てみたいから。

私はこくりと頷いた。

「でも、こんな時間からどこ行く気?」
「どこでもいいさ。ファーストフードぐらいだったら、開いてんだろ。
 …て、あ〜…やっぱそれはないか…ないよな…」

真剣に悩み始める忍に、思わず吹き出してしまう。

「なんだよ…」

不機嫌そうな、ふくれっ面。まるで子どもの。
ますますおかしくて。

「ううん…」

こみあげる笑いを何とか抑えて、返事を返す。

「いいよ、どこでも…」

忍と一緒なら、どこでもいい。
小さく小さく、付け加えた一言。

「え?」

聞き返されたけど。二度は言わない。

「ほら、博士に見つかったら怒られちゃう」

肘でつついて急かすと。
ちぇ、と唇をとがらせて。

車回すから、そんな言葉を残して。忍は丘を駆け下りて行った。



途端に静まりかえる空気。
夜空を、仰ぐ。


これでよかったのか、なんて。
考えても考えても、きっと答えは出ない。

選んだ未来は決して平坦ではないし。
忘れることのできない傷は、これからも疼くだろう。

それでもここで。
大切な人のとなりで。生きていくと決めた。


見上げる先で。
格別に美しい光を纏って見える月。

あの日、私たちを戦いへと送り出し、
そして今日、再び迎えてくれたように。

これから私が歩く道も。
私たちが、並んで歩く道も。

ずっと照らして。見守っていてくれますように。


そっと閉じる目。
まぶたの裏に映る月。


その姿に、静かに願いをかけた。




2010.11.21