キミを追いかけて いつもの帰り道。 駅から家までは長い長い坂道を登っていかなければならない。 人はその坂を心臓破りの坂と呼ぶが、毎日通っていると心臓も鍛えられるのか、別段苦しい道のりではない。 今日もその道をいつものようにゆっくりと、ふみしめるように登っていく。歩道の脇では車が颯爽と坂道を駆け上がっていく。 彼女の着ている黒のセーラー服が、坂を翔る風に乗せられて時折翻る。 今日はいい天気だが、冷たい風が強く吹いていた。だがそれも長袖で坂を登っていく彼女にとっては心地の良い風だった。 ぽくぽくと磨かれた革靴で坂を上っている後ろから、誰かが走ってくる音が近づく。 足音と、箱の中で何かが揺られている音。 ごとごと、ごとごと 彼女の横を黒いランドセルの少年が坂を走っていった。 (元気だなぁ) 彼女は感心して少年の背中を見送る。そんな少年のポケットから何かが落ちる。 少年は気づかずにそのまま走っていった。彼女は走っていくこともなくそのままの速度で落し物に近づくと、それを拾い上げた。 定期入れのようだった。 (定期券かな?気づかないで走っていっちゃったけど。) 彼女は定期券を見つめ、年齢と名前を確認する。 (新開 翔。10歳。そんな名前だったんだ。) そして定期のほかに何か入っていないかと中を探り始めた。 (連絡先とか入っていないのかな?まぁでも・・・いつも私を追い越していくからその時でもいいかな?) 落とし主の少年は、いつもゆっくりと歩いていく彼女の後ろから走って追い抜いていたのだった。 彼女は定期入れの中をくまなく見てみたが、入っていたのはテレホンカードとゲームのキャラクターが書かれたカードが数枚であった。 小学生らしいな、と彼女は微笑むと自分の鞄のポケットに丁寧にしまった。 翌日の帰り道。 いつものように坂を上がっていく。少年が背中から走ってくるのを待ちながら。ゆっくりと、少しだけ緊張して。 だが少年は背中からではなく、正面からやってきた。 「あ・・・」 少年はランドセルをがたごと言わせながら彼女に近づく。 「ねぇおねえちゃん。僕の定期入れを知らない?いつも僕に抜かされているから、もしかしたら見つけてないかな?」 「えっと・・・これだよね?本当は届けようと思ったんだけど、連絡先もわからなくて。ごめんね、遅くなってしまって。」 彼女は鞄から定期入れを出すと、少しかがんで少年の視線の位置まで降りてきて手渡した。 少年は少し照れながら恭しく受け取る。 「あ、ありがとう。」 「うん、よかったね。えっと・・・新開翔くん、って言うのね?いつも走って帰っているよね。」 急に名前を呼ばれた少年、翔はきょとん、と彼女を見た。 「あ、ごめん。定期に名前が書いてあったから。」 「お姉ちゃんは?お姉ちゃんはなんていうのさ?僕だけ名前を知られているのはずるいよ。」 彼女は笑って頷く。 「私は・・・黒山十花っていうの。よろしくね。」 うん、と翔は頷くと少し向きを変えて坂を歩き始めた。 十花も顔を上げて横に並んで歩き出す。 そうして2人はしばらく何も話さないまま歩いていた。 いくつかの曲がり角を通り過ぎていったが、2人のどちらかが曲がる気配は無かった。 十花がようやく口を開く。 「翔くんは結構上のほうに家があるの?」 「うん、お姉ちゃんこそ上のほうなんだ?」 「あ、私はね、ほら、一番上の見晴らしのいい公園があるでしょ? あそこでいつも少しだけぼんやりしてから帰るのよ。本当は私の家にいく道は通り過ぎたのよ。」 信じられない、と翔は十花を見る。 「毎日あんな上までいくの?公園は僕の家の近くだけどさ・・・」 「色々ね、考え事をするの。」 ふーん、と翔はわかったようなわからないような顔をして、再び前を向いて歩き出した。 再び沈黙が2人の間に流れる。次に沈黙を破ったのは翔だった。 「お姉ちゃんさ、ちょっと前まで髪の毛長かったよね?」 そういわれて十花は少しだけ寂しそうな表情をして笑った。 「そうよね、前はこのくらいまであったね。」 と胸の辺りを指差した。しかし今の十花の黒く艶のある髪は肩の上に届くか届かないかと言った長さである。 翔は十花の顔を見ずに歩きながら話を続けた。 「どうして切っちゃったの?」 「どうして、って・・・どうしてだろうなぁ」 十花は少しだけ赤く染まった空を見上げて呟いた。その呟きに翔は何も返さなかった。 そして気がつけば十花がいつも『考え事をする公園』にたどりついていた。 ぎい・・・ 古びたブランコがゆっくりと音を立てる。 翔がランドセルを背負ったままブランコをこいでいた。その隣で十花がその場でゆらゆらと揺れている。 「翔くんは家に帰らなくていいの?」 「帰らなきゃいけないけどさ」 ぎいい、とブランコが力強く音を立てた。 「髪を切った理由が気になるから帰れないよ。」 「そんな、聞いたってなにも面白くないよ?」 ちかちかっと瞬いてから公園のライトに明かりが灯った。夜が近づいてきている。 十花は小さくため息を天に向かって吐いた。その横で翔がなおも勢いよくブランコをこぐ。 「どうして気になるの?別に翔くんは私のことを知らないでしょ?」 「毎日追い越してるからなんとなく知ってるよ。」 え?と十花は天に近づく勢いで漕ぐ翔の横顔を見た。翔はブランコにしっかりつかまり、大きく漕ぐので真剣である。 「だってさ、綺麗な髪の毛だったんだもんね。それが急に短くなったら誰だって気になるよ。」 「あ、ありがとう・・・」 十花は小学生ではあるが『綺麗』といわれ。少し照れくさくなった。 だが、なぜ髪を切ったのかという理由は十花自身も整理ができていなかったのか、ただため息をついて天を仰ぐだけだった。 その仰いだ天に翔の漕ぐブランコが何度も出入りする。 「ねえ、早く言ってよ。夜になるんだけど?」 「うーん・・・そうしたいんだけど、私もよくわからないのよね・・・」 髪を切った理由、十花にとってはっきりしているのは『あの出来事』がきっかけだということだけだった。 *** 『十花ちゃんは、お人形さんみたいね』 小さい頃から、周りからそんな風に言われて育ってきた。 母親譲りの陶器のような白い肌と、大きな瞳。自慢の艶やかな黒髪。 十花はそれを、ほめ言葉だと思ってきた。 でも、先日親戚の集まる食事会で、その出来事は起こった。 父方の伯母が、十花に縁談を進めてきたのだ。 「十花ちゃんも、もうお年頃なんだからそろそろ考えておかないとね。2年生も半ばなんだし」 十花にとっては、考えられない話だった。卒業したら大学に行きたいと、両親には話していたはずだ。 そして両親も、それには反対しなかった。なのに、伯母の発言に、2人は笑ってうなずいているだけ。 「それでね、この方なんかどうかしら」 伯母は、1枚の写真を取り出した。大方どこかの社長の息子か何かだろうか。 どんどん進められていく話にこらえきれず、十花は思わず両親に食ってかかった。 「私、卒業したら大学行くって言ったよね?二人ともいいって言ったじゃない。ねえ、お父さん、お母さん!」 「ああ。十花の好きなようにすればいいと思ってるよ。でも、1回ぐらいお会いしてみたらどうだ?」 「お母さんもそう思うわ。やさしそうな方じゃない」 2人は微笑んで返したけど、目は、そらしたままで。 「冗談じゃないわよ!!」 バンッ!と、机をたたいて、十花は立ち上がった。 「私の将来よ、勝手に決めないで!」 突然のことに、その場は一瞬凍りつく。そしてその最中、誰かがポツリと呟いた。 『見た目はお人形みたいだけど、中身はとんでもなく気の強い子ね』 その瞬間。 『お人形みたい』…これまでほめ言葉だと思っていたそれが、この家のために自分に課された使命であるかのように思えて。 そうしたらなんだかすべてがバカみたいに思えて。 程なくして十花は、ずっと自慢だった黒髪を短く切ったのだった。 「そうね…いやになっちゃったのかも」 「なにが?」 「…それは…。やっぱりよくわからない」 「え〜」 思い切り不満そうな表情を見せた翔に、十花は、ごめんね、と、肩をすくめた。 「さ、そろそろ帰らないとお家の人が心配するよ。私も、もう行かなくちゃ」 わざと元気よく、ブランコから立ち上がる。 「あ、待ってよ」 翔のブランコも、きいっと音を鳴らして勢いを落とした。 「僕の家、ここだから」 公園を後にして少し行ったところ。翔が一軒の家の前で止まった。 暗がりの中、街灯に照らし出される家を、十花はぼんやりと見上げた。 大きくはないけれど、小奇麗に整えられた外観。窓からは、あたたかい光が漏れている。 じゃあね、と元気な笑顔を見せて玄関先に走っていく翔を見送って、十花がその場を後にしようとしたその時、 「おねえちゃん」 ふいに呼び止められる。 振り返ると立っている翔が、さっきよりもずっと大人びて見える。街灯のせいだろうか。 翔はゆっくりと口を開いた。 「僕…ほんとは髪よりも、気になってたことがあるんだけど。…最近、元気なかったでしょ?」 「えっ?」 十花は驚いて、目を丸くした。 確かにあの一件以来、心のもやもやが晴れることはなかった。 少しでも家にいる時間を減らしたくて、公園に寄り道をして帰るようになったのも最近のことだ。 でも、毎日自分を追い越して走っていくだけの少年に、どうしてそんなことがわかったというのだろう。 「歩いてる後姿だけでわかっちゃうよ」 納得いかないといった表情の十花に、翔は得意げに言った。 「僕、けっこうおねえちゃんのこと見てるんだからさ」 その言葉に、十花は思わず吹き出してしまった。 「あーっ!笑ったな!」 「だって…もう、翔くん、おませだなぁ」 「でもほんとなんだってば!」 「うん…あはは…ありがと」 「も〜お!!」 不満そうに頬を膨らませる翔は、もとの子どもらしい表情に戻っていた。 次の日の帰り道。いつもの坂道を登る十花の後ろから、近づいてくる足音。 それが誰のものかはわかっていたけど、あえて振り向かずにいると、 「おねえちゃん!落し物!!」 声と一緒に、背中にぶつかる衝撃。 思わず前のめりになった体勢を立て直すころには、足音の主は少し前を走っていった。 その手には、見覚えのある定期入れ。 「ちょっ…それ私の!!」 「改札んとこ落ちてたよ。先に公園行ってるねー!」 黒いランドセル。ごとごとと揺らしながら、坂を駆け上がっていく。 さすがに走って追いかけるほどの元気はなかったけど、 一刻も早く定期を取り返したくて。一刻も早くあの笑顔に追いつきたくて。 十花は足を早めて、心臓破りの坂に挑んでいった。 2008.9.20